大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和61年(ワ)1708号 判決

原告

石田梅乃

右訴訟代理人弁護士

小西正人

被告

日本火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

品川正治

右訴訟代理人弁護士

向田誠宏

被告補助参加人

藤田禎子

右訴訟代理人弁護士

阪本豊起

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告(請求の趣旨)

1  被告は、原告に対し、金一七五〇万一〇四〇円及びこれに対する昭和六一年一一月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告(請求の趣旨に対する答弁)

主文同旨

第二  当事者の主張

一  原告(請求原因)

1  訴外梅本産業株式会社(以下「梅本産業」という。)は、被告との間で自動車損害賠償責任保険の契約(証書番号第七六〇七一三七四八四号)を締結した。

2  梅本産業の所有する前項の保険の対象であつた普通貨物自動車(姫路四四ひ四八九八。以下「保険契約車両」という。)が昭和六〇年五月一八日、兵庫県三木市細川町豊地五六九番地先、県道加古川・三田線において単車で走行中の訴外藤田昌宏(以下「亡昌宏」という。)を跳ねとばし全身打撲により即死させた。

3  亡昌宏の死亡当時の第一順位の相続人は同人の母である補助参加人のみであつたところ、同人は神戸家庭裁判所に被相続人亡昌宏に対する相続放棄の申述をなし、昭和六〇年九月二日、同裁判所においてこれを受理され、その相続権を亡昌宏の死亡時に遡つて失つた。

4  亡昌宏の第二順位の相続人は、同人の祖母である原告、祖父の藤田初男、祖母の藤田笑子の三人であつたが、藤田初男及び藤田笑子は、神戸家庭裁判所に被相続人亡昌宏に対する相続人放棄の申述をなし、昭和六〇年一二月二日、同裁判所においてこれを受理され、その相続権を亡昌宏の死亡時に遡つて失つた。

その結果、原告が、亡昌宏の唯一の相続人となり、亡昌宏の自賠法一六条一項による被告に対する損害賠償金請求権を、相続により承継した。

5  本件交通事故により亡昌宏の被つた損害は金一七五〇万一〇四〇円である。

よつて、原告は、被告に対し、自賠法一六条一項に基づき、右損害賠償金一七五〇万一〇四〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六一年一一月一二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告(請求原因に対する認否)

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、事故態様及び死因は否認し、その余は認める。

3  同3の事実中、補助参加人が亡昌宏の唯一の第一順位の相続人であつた事実は認め、その余は知らない。

4  同4の事実は知らない。

5  同5の事実中、補助参加人が被告に損害賠償金の支払を請求し、被告において損害額を金一七五〇万一〇四〇円である旨査定し、補助参加人の同意をえて右金員を補助参加人に支払つた事実は認める。なお、右支払保険金一七五〇万一〇四〇円のうち、金二九九万六二三一円は亡昌宏の実母である補助参加人固有の損害金として支払われたものである。

三  抗弁

1  被告

仮に、亡昌宏が相続人が原告であつて、原告が本件交通事故につき自賠法一六条一項の請求権を有するとしても、右請求権は、次のとおり、債権の準占有者に対する弁済により消滅している。

すなわち、補助参加人が被告に対し、昭和六〇年一一月一日、亡昌宏の相続人と称して本件交通事故につき自賠法一六条一項の請求をしたため、被告は、補助参加人が亡昌宏の唯一の相続人であると信じて、昭和六一年一月二四日、補助参加人に対し、自賠責損害賠償保険金一七五〇万一〇四〇円を支払つた。

被告が補助参加人を亡昌宏の相続人であると信ずるについては、次のとおり、正当事由があり、被告には過失がない。

すなわち、被告は、補助参加人が亡昌宏の実母で唯一の相続人であることを戸籍謄本で確認のうえ右自賠責保険金を支払つたものであるが、一般に、一八歳の未成年者が多額の借財をしていること及びその死亡に際しその母が相続放棄の申述をすることの予見可能性はなく、本件でも、死亡当時満一八歳の亡昌宏が多額の借財をしているとか、その母である補助参加人が相続放棄の申述をすること、あるいは右申述をしたことを予見させる具体的状況はなかつた。

また、相続人は自己のために相続の開始があつたことを知つた時から三か月以内は相続放棄することができ、またこの期間は伸長可能であるところ(民法九一五条一項)、仮に保険会社に相続放棄の申述の有無の調査義務があるとすれば、保険会社は、相続人のすべてについて「相続開始の事実を知つた時」を確認し、その時から三か月または伸長があればそれ以上の期間を経過しない限り、請求権者の請求適格の調査未了を理由として、損害賠償金支払のための調査に着手もできないことになり、自賠責保険金の支払処理は、大幅に遅延し、あるいは不可能となるおそれがあり、損害金の安全敏速な支払処理に反する結果を招来する。

2  補助参加人

(一) 補助参加人は、本件事故態様が亡昌宏の自損事故に近いものであることを覚知し、このような自損事故では自賠責保険金は支払われないものと思い込むに至つた。そして、死亡当時亡昌宏には実父藤田武久から相続した負債約六〇〇万円があり他方積極財産はなかつたから、補助参加人は、右負債が相続により自己に帰属することだけでも免れようと考え、相続放棄の申述に及んだものであるところ、補助参加人の右相続放棄の申述は、相続財産の評価に関して重大な錯誤に陥つてなされたものであるから無効である。

(二) 補助参加人は相続放棄の申述をした後である昭和六一年一月二四日本件損害賠償金を受領しこれを費消したから、民法九二一条三号本文の規定により単純承認したものとみなされる。

四  原告(抗弁に対する認否)

1  抗弁1の事実中、被告が補助参加人に対し、自賠責保険金として金一七五〇万一〇四〇円を支払つたこと、補助参加人が亡昌宏の実母であり、亡昌宏が死亡当時満一八歳であつたことは認め、その余の事実は否認し、その主張は争う。

被告には亡昌宏の第一順位相続人である補助参加人につき相続放棄の申述がなされているか否かを調査すべき注意義務があつたのに被告はこれを怠つた。昨今相続放棄申述事件が急増しているため、損害保険各社において、死亡事故に関する保険金支払に際しては、請求者が相続放棄しているか否かの調査をなすのが通常である。本件の場合、亡昌宏の死亡日は昭和六〇年五月一八日、自賠責保険被害者請求日は同年一一月一日、同支払日は昭和六一年一月二四日であつたから、被告に相続放棄の申述の有無を調査する意思さえあれば容易にこれをなしうる状況にあつたのであり、被告に右調査義務を負わせることは決して苛酷でない。

2  抗弁2(一)の事実は否認し、その主張は争う。

五  原告(再抗弁)

補助参加人の本件自賠責保険金の受領及び費消は、原告が、被相続人亡昌宏からの相続を民法九二一条二号の規定により単純承認したものとみなされた後になされた。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(自動車損害賠償責任保険契約の締結)の事実は当事者間に争いがない。

二交通事故の発生

請求原因2の事実中、原告主張の日時・場所において、梅本産業の所有する保険契約車両と亡昌宏との間で交通事故が発生し、右事故により亡昌宏が死亡したことは当事者間に争いがなく、右争いなき事実に〈証拠〉を総合すれば、亡昌宏は、前車を追越そうとした際、前車が右にハンドルを切つたため追越しをやめようとして急ブレーキをかけたところ自車のバランスを崩して転倒し、亡昌宏の身体が反対車線に飛び出したところを、保険契約車両に轢過され、ために頸椎骨折により死亡したものであることが認められ、右認定に反する証拠はない。

三請求原因3の事実中、補助参加人が亡昌宏の実母であつて同人の唯一の第一順位の相続人であつた事実は当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、補助参加人が、相続放棄の申述をなし、昭和六〇年九月二日、神戸家庭裁判所はこれを受理したことが、〈証拠〉によれば請求原因4の事実(藤田初男・藤田笑子の相続放棄)がそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

四弁論の全趣旨によれば、補助参加人が、本件事故につき、自賠法一六条一項に基づき、被告に対し、自賠責保険金の支払を請求し、金一七五〇万一〇四〇円の支払を受けたこと、右金一七五〇万一〇四〇円のうち、金二九九万六二三一円は、補助参加人の固有の損害に対するものであつて、亡昌宏の相続人が相続により取得すべき自賠責保険金は、金一四五〇万四八〇九円であることが認められ、右認定に反する証拠はない。

したがつて、亡昌宏の唯一の相続人となつた原告は、相続により、被告に対して、自賠法一六条一項に基づく自賠責保険金一四五〇万四八〇九円の債権を取得したものと認められる。

五そこで、本件訴訟の主要な争点である抗弁1(債権の準占有者に対する弁済の効力)について検討する。

被告が補助参加人に自賠責保険金一七五〇万一〇四〇円を支払つた事実は当事者間に争いがなく、右争いなき事実に〈証拠〉を総合すると、補助参加人は、被告に対し本件事故の損害賠償金の被害者請求手続をし、関係書類を被告に提出したこと、被告は、右関係書類中の戸籍謄本(乙第七号証)により補助参加人が亡昌宏の唯一の第一順位の相続人であることを確認したうえ、補助参加人に対し、前認定のとおり保険金の支払をしたことが認められ、右認定に反する証拠はない。右事実によれば、被告は、補助参加人が既に相続放棄していたことを知ることなく、右保険金の支払をしたものと認められる。

ところで、前認定のとおり、相続放棄をした補助参加人は、被告から支払を受けた自賠責保険金のうち、補助参加人固有の損害について支払われた分を控除した額については、その支払請求権を有していなかつたのではあるが、同人は亡昌宏の唯一の第一順位の相続人たるべき者であつたから、いわゆる表見相続人として、右損害賠償請求権を有するものと認めるに足りる外観を備えた民法四七八条所定の債権の準占有者であつたというべきである。

そして、前認定のとおり、被告は、補助参加人が相続放棄をしたことを知らず、補助参加人が亡昌宏の真正の相続人であると信じて善意で、債権の準占有者である補助参加人に対し弁済したものである。

そこで進んで、債権の準占有者である補助参加人に弁済した被告に、補助参加人が真正な相続人であると信じた点に過失が存したか否かにつき検討する。

交通事故で死亡した被害者の遺族が、自賠法一六条一項に基づき保険会社に自賠責保険金の支払を請求する場合には、同法施行令三条二項二号、同条一項二号により「請求する者の死亡した者との続柄を証するに足りる書面」を添付して請求しなければならないところ、通常右「請求者と死亡した者との続柄を証するに足りる書面」とは関係戸籍謄本を意味するものと解されるから、遺族が相続放棄をしたにもかかわらず、これを秘して、自賠責保険金の支払を請求した場合には、保険会社に右添付書面の確認にとどまらず、さらに独自に相続放棄の有無を調査すべき注意義務が存するか否かが問題となる。

一般に、相続放棄が例外的な現象であり、相続放棄を行つた者が、交通事故の被害者の損害賠償請求権を相続したとして損害賠償金を請求することが稀な事態であつて、戸籍上相続人とされる者であれば、通常、第三者において右表見相続人が右損害金を受領する権限ありと信じるのは無理からぬものであること、本件の如く交通事故の被害者の遺族が自賠責保険金の被害者請求をした場合、右添付書面として関係戸籍謄本以外に「相続放棄のないこと」を証する書面を必要とする取扱は、自賠責保険金の円滑な支払に反するものであつて被害者保護の見地から明らかに相当でないこと、逆にこのような場合すべてについて保険会社に請求者が相続放棄しているか否かの調査義務を課することは、自賠責保険支払義務の円滑な運営の見地から相当でないこと等に鑑みると右の如き場合すべてについて、保険会社に、請求者である遺族の相続放棄の有無を調査すべき注意義務があるとするのは相当ではなく、右遺族が相続放棄を行つたことを疑わしめる事情が保険会社に判明していた場合にのみ、保険会社は、右調査をなすべき注意義務があるものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、本件においては、亡昌宏が多額の債務を有する等補助参加人が相続放棄をなし、あるいはこれをなす可能性が高いことを伺わしめる事情は何ら被告において了知しうる事実関係になく、その他被告において相続放棄の有無を調査しなかつたことにつきこれを不相当とすべき事情は認められないから、補助参加人から提出された戸籍謄本に基づき、戸籍上、補助参加人が唯一の相続人とされていることを確認することにより、被告は自賠責保険金支払に際し請求者の請求適格に関する注意義務を尽したものというべく、さらに被告において補助参加人の相続放棄の有無を調査すべき義務はなかつたものというべきである。従つて被告には右の点につき過失はなかつたものと認めるのが相当である。

そうすると、被告の補助参加人に対する前記自賠責保険金の支払は債権の準占有者に対する弁済として有効であり、被告の右抗弁は理由がある。

六以上の事実によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官杉森研二)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例